やじま のぶお
矢島信男
生年月日 (1928-07-24) 1928年7月24日
没年月日 (2019-11-28) 2019年11月28日(91歳没)
出生地日本・埼玉県大宮市
職業特撮監督
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矢島 信男(やじま のぶお[1]、1928年〈昭和3年〉7月24日[1][2] - 2019年〈令和元年〉11月28日[3])は、日本の特撮監督。埼玉県大宮市(現:さいたま市)出身[1][2]。特撮研究所創業者。 1949年に東京物理学校理化学科を中退し[4][2]、松竹へと入社[出典 1]。大船撮影所に配属される[4]。新入当時は編集から現像、直営館(浅草松竹)の窓口で切符のモギリに到るまで興行の流れを一通り体験したことが[4]、後々のコスト感覚に優れた演出への貴重な礎となっていく[5]。早くから劇場映画のカラー化に興味を持っていたことと、ジョン・フォード監督の『ハリケーン』という作品を観たことから特殊技術にも興味を持ち始め、松竹大船撮影所の特殊技術課において撮影監督を務めていた、川上景司への師事を選択する[5][6]。 日仏合作映画の『忘れえぬ慕情』では助監督・キャメラ・合成を担当[出典 2]。同作で知り合ったフランスの編集マンを通じて編集作業に興味を抱くようになる[5][7]。松竹には敗戦後の公職追放によって東宝を離れていた円谷英二が顧問として在籍しており[出典 3]、帰路が同じだったこともあり、話を聞かせてもらう機会も多かったという[出典 4]。円谷から『ゴジラ』にも参加の話が来たが、松竹に在籍していたこともあり辞退している[出典 5]。また、ウルトラマンのデザインを手掛ける成田亨も『忘れえぬ慕情』の特殊技術を手伝っていた関係から[5]親交も深まり、二科展に成田の作品が入選した時は二人で祝杯を挙げている[5]。 映画監督の木下恵介には、1955年の『野菊の如き君なりき』の登場人物の心情をあらわすために、楕円形のマスクをかけたカットを通じて、ドラマとして情景カットを取る姿勢を教えられている[9]。 また、撮影監督の三木茂とは仕事上での接点はなかったものの、「作品を作るのは、編集でもキャメラでもなくハートである」という心構えを教わり[8]、この言葉は、その後の撮影ポリシーとなっている。 なお、カラー時代の松竹マーク(映画が始まる前の会社マークの映像)は矢島の制作したものである[9]。これは撮影仲間同士でカラー撮影の研究会をやっていた折、誰も引き受ける者がいなかったために、押し付けられた形で担当したものである[9]。 1959年には、東映社長の大川博からの誘いもあって松竹を退社[出典 6]。松竹特殊技術課の縮小に伴い不要となっていたエリアルイメージ合成機を手土産に、東映東京撮影所へ移籍する[11][10][注釈 1]。同撮影所内に設立されたばかりの特殊技術課は、課長の小西昌三が予算管理などの職務を担当しており、撮影監督は松竹出身の矢島と新東宝出身の上村貞夫の2名のみ。技術スタッフも美術の成田亨や合成の山田孝など、必要最小限なチーフ担当者以外には、助手が数名ほどの規模であった。同時期の東宝特殊技術課とは比較にならぬスタッフ数や低予算を強いられながらも、矢島と上村は量産期の東映映画で多くの特撮演出を手掛ける[12][注釈 2]。
経歴
松竹に入社
東映へ移籍